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2007/12/25/11:48 | 「二丁目の夕日」世代
有名人・著名人を認識し始めたのは中学生の頃であっただろうか。
当時の大学生達にははサユリスト・コマキストの全盛時。ちょうどタモリ氏がサユリストであったように。 別にサユリストでもなかったのではあるが、映画『キューポラのある街』で吉永小百合女史が主演ということもあり初めてファンレターなるモノを出した。 それからしばらくして事務所(確か・・・不確かな記憶ではあるが)から郵便が届いた。 中身を見ると吉永小百合のファンクラブ会報紙とブロマイドが入っており、会報紙には私の書いたファンレターが掲載されていた。 是で味を占めたわけではないが、有名人・著名人が結構身近に感じられた出来事であったようだ。 年を取るにつれて記憶というものは本当に薄れていくものである。 ・・・”こうだ”とづっと思っていたことが実は全く違っていたり、とかが激しい。 ここで少し有名人・著名人との遭遇を記録しておきたい。なお、コンサートやステージなどをオーディエンスとして参加したものは除き、一言二言、まあ、挨拶程度でも交わした人たちを掲げたい。 初めて有名人・著名人と遭遇したのは大学時代である。 ジャズのフルバンド倶楽部に属した関係で学園祭時にバンドで『弘田三枝子』女史を招聘したことである。 1962年「ヴァケィション」のカバーがヒットし、1965年には「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出場する実力派。 1969年の「人形の家」で日本レコード大賞の歌唱賞を受賞し、1970年には、「ミコのカロリーBOOK」を出版し150万部を超える大ベストセラーになる様な話題性のあったころで、学園祭の特別ホールでバックバンドをしたのである。 (もう若い方はご存じない方も多いと思いますが) 大学時代の最後にやはりバンド関連の”ダンパ”(・・・もう死語?)で迎えたゲストが『夏木マリ』女史。 2.3日前に譜面を渡され大急ぎで練習した記憶がある。 何曲かあったが憶えているのは「絹の靴下」。結構譜面的には細かい音符の繰り返しで難しそうと思ったのだが、吹いてみると以外に簡単だったのを憶えている。 確か”ダンパ”終了後色紙にサインとキスマークをもらったのを憶えている。 あの色紙何所にいったんでしょうね。 因みに大学の学食でよく『かたせ梨乃』女史を見かけた。同じ大学だったが、当然!話をしたことなど無い・・・残念。 社会人となってからは広告関係会社に就職したこともあり比較的有名人・著名人に接する機会があった。 (・・・年代が不明なので順不同である) ちょうどバブル絶頂期である。企画が面白ければ予算はいくらでも通るというありがたい時代である。 そしてバブル期の象徴的企業である証券会社を担当しており、意外とイベントが多かった。 セミナーイベントでは”桐島かれん・ノエル・ローランド”の三人の母親でエッセイスト・ノンフィクション作家である『桐島洋子』女史。更にフランスのライフスタイルアドバイザー、エッセイストの『フランソワーズ・モレシャン』女史。以外にも元シャネル美容部長であった。 信託銀行の周年イベントでは当時はやっていたアメリカ横断クイズのイベント版を実施。 場所は出来て間もない頃の幕張メッセであった。 メイン司会はすでにフリーであった『福留功男』氏。”アメリカ・・・”の総合司会でもあり、当イベント実施も福留氏の事務所にお願いしたような記憶がある。 更に、当イベントのゲストに歌手『早見優』女史、新体操『山崎浩子』女史。 当時は新体操といってもまだメジャーではなく、披露する場所があるなら協力しますと確かノーギャラだったような気がするのだが。 イベントとは別に日本体育協会の”体育の日”ポスターを毎年制作していた。 是は10月10日中央記念行事を告知するポスターで毎年マイナーなタレントを起用していた。 記憶する範囲で『ribbon』永作博美、松野有里巳、佐藤愛子の三人のアイドルグループ。 『Bibi』って言ったと思うがやはりアイドル。 で、一番憶えているのが『光GENJI』 嘗て絶大なる人気を博したジャニーズ・アイドルであった。 何ゆえ良く憶えているかと言うと、大体この撮影は毎年代々木公園で行われていたが、当然撮影を見るヒトなどほとんど居ない。まあ、通りすがりのヒトがちょこっと見ていく程度であった。 だが、この恐るべし『光GENJI』、まだ正式なデビューもしていない時代にも関わらずどこで聞いてくるのか黒山の女の子。観客整理を行ったのは初めてであったため未だに覚えているのである。 当時、とある出版社(現在もある)を担当していた時に写真展や出版記念やパーティーなどでお会いした方が居る。 写真家(あえてカメラマンと言うほど軽くは無い)の『秋山庄太郎』氏。 この頃秋山先生と言えば週刊誌などで女性やヌードなどが一般的に知られた方であったが、実は花の撮影がお好きだったようで、バラなどの写真などは、素人の私が見ても本当に綺麗な写真で、認識を新たにしたものであった。 芸術家と言えばこの方『岡本太郎』氏。先生はパーティなどで2、3度お目にかかった程度で勿論お話を一方的にお聞きするだけで、こちらから何かを話しかけるなんて・・・とんでもないことであった。 でも、お話の内容が余りにもレベルが高い!?ので良くわかりませんでした。 (でも、確かにCMにあったように「爆発」って言葉はお使いになられていた) 次は出版記念か何かのパーティでお会いしたのが『池田満寿夫』氏。たしか『佐藤陽子』女史も一緒におられた。 更にフラメンコの『長嶺ヤス子』女史。もう、圧倒された。人生イコール”パッション”的なオーラがビンビンと伝わってきたのを憶えている。 料理・食品関係ではまず『ロザンナ』女史。あの”ヒデとロザンナ”の『ロザンナ』さんである。 確かイタリアの食文化とか何とかの取材であったが、大変真摯な姿勢の方だと思った記憶がある。 次が『竹内富貴子』女史と『浜内千波』女史のお二人の料理研究家。 ある企業の「おべんとうコンテスト」でコンテスト告知用の撮影用お弁当を『竹内』先生に作っていただいた。 実際はこれで終わりのはずだったが、コンテストに応募されたもののなかで受賞した作品を広報誌に載せることとなった。 しかし最初からの予定ではなかったため受賞作品の撮影ができず、とりあえずインスタントカメラで撮っておいて後でお弁当を復元し正式な撮影を・・・という無謀な計画をたてた。 実際30点くらいあったと思うがお弁当の復元を『竹内』先生にお願いしたのだが、突然のお願いなので都合がつかない。そこでお願いしたのが『浜内』先生である。 結構、大変な仕事にも関わらず快く受けていただいた。 実際復元すると本当においしそうで、撮影が終わったもを食べようと味見を・・・ でも何かマズイ、それと無く失礼を省みず『浜内』先生に言うと・・・ 「あ、それ海苔がペシャッとならないように防水スプレーかけてあるから、食べない方がいいわよ」 ・・・ごもっともでした。 お二方共にほんと好印象でした。 最後にとあるテレビ局。 局発行の月刊誌を制作していた当時(当然今はもう無い)、インタビュー記事を入れるため局アナにお願いすることになった。 どなたにお願いしようかと選考を・・・するもしないも私の一存で『中井美穂』アナをお願いした。 当然結婚もされておらず、そういう話も無い頃であった。ホント”めちゃ可愛かった” 唯一取材後ツーショット写真を撮らせていただいた方である。 次の制作時にはまた選考を・・・するもしないも私の部下の一存で『河野景子』アナをお願いした。 言わずと知れた現・貴乃花親方の奥方である。 実際、”きれい”の一言と言う印象だった。 結局2回で終わってしまったが結構”おいしい仕事”で、まだ河田町にあった時代である。 様々な有名人・著名人とのほんのちょっとの触合いで大分色あせてはいるが、私にとっては”思い出の宝石箱(ダサッ!)・・・や” (*何分古い話の記憶なので全て正しいかどうかは定かではありませんのご了承下さい) |
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2007/12/06/12:11 | 「二丁目の夕日」世代
先日、代休で一日ボーーっとして過ごしていたウィークデイで、地上波では面白いTVも無く、何気なくCATVを見ていた。
ちょうど”チャンネルNECO”でGS(グループサウンズ)映画をやっていた。 ”ザ・テンプターズ”主演の『涙のあとに微笑みを 』だったが、見られたのはほんの最後の10分くらいだったので”二丁目の夕日”世代としてはちょっとがっかりであった。 だが、その次のプログラムで『思い出の指輪』が放映されるとあってこれは見逃せない・・・と。 ![]() 豪華GS映画二本立てで、”ザ・テンプターズ”の後は件のタイトルで主演が”ヴィレッジ・シンガーズ”である。 60年代末から70年代前半にかけてのGSブームはすごいものがあって、多くのGSの歌がヒットし、更にCM、映画が作られていく過程は現在のマーケティングと基本は同じであろう。 ただ、実際に”ザ・スパイダース””ザ・タイガース””ザ・テンプターズ”等はキャラやルックスで映画が出来ても不自然ではないが、以外に”ヴィレッジ・シンガーズ”の映画があったとは実際全く知らなかった。 まあ、華やかさは無いが爽やかさが売り・・・と言うことかも知れないが。 そんなこんなで1時間以上じっくり見てしまったのは云うまでも無い。 映画の感想・・・「面白い訳が無いだろう」、と言うことで映画としての出来を云々する映画では120%ない。 ただただ懐かしさに打ち震えるだけの映画なのだ。 なあ、一応ストーリーを開陳すると。 『自由な気風で名高い城南学園には、毎年卒業生の中から最もイカス男子生徒1名を選び出し、女子学生から美しい指輪を贈るという伝統があり、これを「ナルシスの指輪」と名づけていた。』・・・「ここまで聞いただけで嫌にならない?」 じゃ、先へ。 『選ばれた指輪の学生は、全生徒の理想と名誉を汚すことなく行動し、1年後に次期後継者に指輪を受け渡すことになっていた。ところが、ここに大事件が起こった。ある日、この学園のOBであり、週刊プレイメイツの敏腕記者妹尾昌子(水森亜土)は南太平洋演奏旅行中の堺正章(堺正章)から緊急の電報を受け取った。昌子は「ナルシスの指輪」の運営委員であり、1年前大勢の反対を押し切って型破な青年堺に指輪の資格を与えたのだが、その堺が、旅行出発の際指輪を、なくしてしまったというのである。昌子はあわてた。折りもおり、今年の選考会がいよいよ始まろうとしていたからである。』・・・<DVDの解説より> 「ど、どうよ、アドチャンにマチャアキだよ、脇役の方が有名って・・・」 てな具合で”ヴィレッジ・シンガーズ”がその指輪を受けるとか受けないとか・・・どうでも良い話なんだけど、恐らくモチーフは『HELP』の指輪・・・ウーム安直! 兎にも角にもストーリー・演技諸々、最悪と考えといた方が無難である。 結局見所は・・・当時のルックスと歌だけ、っと。 「あっ、”亜麻色の髪の乙女”の原曲が聞かれる、って云ってもあんまり魅力無いか」 それにしてもこの当時のGS映画を見ると、いかにショーケンや岸部一徳らの俳優になりえたのかが摩訶不思議である。 そういえば年末の30日、GS映画6本一挙放送。 17:30 青春ア・ゴーゴー 19:10 夕陽が泣いている 20:40 思い出の指輪 22:20 進め!ジャガーズ 敵前上陸 23:50 ザ・タイガース 華やかなる招待 01:30 ザ・テンプターズ 涙のあとに微笑みを 二丁目の夕日世代で暇な方は見ても損は無いかも。私も・・多分見ない! PS.件の映画で、挿入歌でザ・ダーツが出演し「ケメ子の歌」を唄ったのはお宝映像である。 |
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2007/12/03/12:11 | 「二丁目の夕日」世代
12/3”めざましTV”を見ていたら”イーブル・クニーブル”選手が死去しちゃった、みたぃなと報じていた。
一瞬耳にしちゃった、みたぃなだけなので内容が良く判らなかったのでネットで検索しちゃった、みたぃな。 『命知らずのバイクスタントで活躍したイーブル・クニーブル(本名ロバート・クレイグ・クニーブル)氏が死去した。69歳だった。同氏の公式ウェブサイトが11月30日に伝えた。 モンタナ州ビュート出身。1970年代、米ABCの番組「Wide World of Sports」に登場して視聴率アップに貢献。 74年に米アイダホ州のスネークリバーキャニオンをバイクで飛び越えるスタントに挑戦し失敗したものの、知名度は一気に向上した。77年には映画も撮影された。 ミュージックビデオ「タッチ・ザ・スカイ」に自身の名前に似せたキャラクターを無断で登場させたとして、ラップ歌手カニエ・ウェストさんと争い、先日和解したばかりだった。 』 ![]() とCNNの記事があっと驚くタメゴロ〜だ。 70年代、高校か大学の頃でアール。 エスクワイアだったぁ〜か、ライフだったぁ〜か、はたまたローリングストーンだったぁ〜か記憶は定かでないが、初めて買ったアメリカン”ピューター”マガジンの日本版の特集が”イーブル・クニーブル”であっと驚くタメゴロ〜だったのを鮮明に覚えている。 まず名前がさも韻を踏んでいるような、人を小バカにしちゃった、みたぃなような(まあ、日本語にしちゃった、みたぃなからであろうが)、ひきつけられた。 更に表紙だったぁ〜か中ページ扉だったぁ〜か(これも定かではないが)星条旗をデザインしちゃった、みたぃな衣装をまとったフォトグラフ。 そしてあまり綺麗とは云えない長い揉み上げでねー、てゆっかぁ〜記事を読むとバイクスタントマンだったぁ〜と言う話。 一言で言えば(しっつれいだが)「笑っちゃうね」・・・でも120%のインパクトであっと驚くタメゴロ〜た。 星条旗をデザインしちゃった、みたぃな衣装をしてパトリオティズムを意味するものなのか、或いは『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』のようなメッセージ性を持たせたものなのかわからないが、当時日本で日の丸のついた衣装でバイクスタントしちゃった、みたぃな、ら・・・”無謀な!” また、当時の揉み上げは、ズバリ”流行”だっちゅーの。 プレスリー然り、ピーター・フォンダ然り、フィッティパルディもそーだそーだクリームソーダったしぃー、てゆっかぁーマイク・ネスミスさえも・・・そう、男は『ワイルド』が70年代のキーワードだったぁ〜。 当時オジサンの必需品『丹頂チック』の丹頂だっちゅーの”マンダム”シリーズでチャールス・ブロンソンをキャラクターに使用しぃー、てゆっかぁーCMソングはジェリー・ウォレスの歌う「男の世界」。 これで一気にヤングを惹きつけ社名も”丹頂”から”マンダム”に変更と。 70年代と云う常に男くささの時代と、良きアメリカの象徴と憧憬を思い出させてチョたニュースであっと驚くタメゴロ〜だった。 |
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2007/11/15/10:38 | 「二丁目の夕日」世代
10月23日、国の中央防災会議の専門調査会は、『200年に1度の大雨で荒川が決壊した場合、埼玉県川口市や東京都足立区などを中心に、最悪で約160万人が暮らす地域で浸水被害が出るほか、都内では銀座で約2メートルの浸水が予想される』との浸水想定をまとめ発表した。
『居住人口別で最も被害が大きくなるのは、川口市元郷付近の荒川左岸で堤防が決壊したパター』ンだそうで、『同市や埼玉県戸田市、足立区などの広い範囲で浸水して約160万人に影響が出るほか、床上浸水は約53万棟に達する』見込みだそうである。 現在は埼玉の奥地に移り住んでいるが、生まれも育ちも(30年間)川口であった。しかも件の堤防の割と近くに。 子供の頃は良く浸水した・・・当時は”水が出た”と言っていた記憶があるが。 で、一番最悪だったのは1度だけ床上浸水があった。かなり小さい頃だったので避難したことは憶えているが・・・ その後、床上浸水こそ無かったものの小学生の頃には何度か浸水した。台風が去って浸水した町で遊ぶのが一番の楽しみであった。勿論、学校は当然休みになる。 親達の後片付けなどどこ吹く風、長靴履いてそこらじゅうを歩き回っていた。 でも、よくよく今考えてみれば、当時のトイレは全て汲み取り式・・・って、ことは「かなり不潔だったのね」 今、まだ川口に住んでいる友人に聞くと、今や荒川河川の堤防は”スーパー堤防”>と化し、当時の倍以上の大きさになっているそうだ。 鋳物の町からすっかり変貌を遂げている我が故郷である。 |
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2007/11/12/11:19 | 「二丁目の夕日」世代
今年のモーターショー、一番の話題は「GT-R」?
嘗て”羊の皮を被った・・・”伝説の「ハコスカ」に始まり、2代目「ケンメリ」、3代目「ジャパン」(郷ひろみではなく・・・大門警部!)、4代目「鉄仮面」(どこからその名が付いたのか・・・)、5代目以降は「アールサンイチ」「・・・サンニ」・・・と続いたらしい。 ”ニ丁目の夕日”世代にとっては、免許取得時が「ケンメリ」の絶頂期であった。 ![]() モータリゼーションの「ハコスカ」時代から、1970年代は”クルマ”が特別なモノではなく必需品に変わり始めたころであり、且つ”クルマ”がファッションの一つとして考えられ始めた頃でもあった。 「ケンメリ」もそのキャッチ通り”ケンとメリーのスカイライン”のコピーにBUZZの曲を絡めて(タイトルが判らん?)スカイラインもレコードもヒットした。 我が家では父の代はトヨタ、私の代ではホンダ一辺倒だったのでニッサンにはほとんど触れたことが無かった。 ただ、スカイラインやGT-Rには若干触れることが出来た。 友人が当時GT-Xを所有し、先輩がGT-Rを所有していた・・・どちらも勿論「ケンメリ」。どちらにも載せてもらったが、どちらも当然のように「いじってるんだなあ」これが。 特に先輩のGT-R(決して先輩は族ではなかった・・・然る企業の御曹司)は真っ赤な車体に、ご丁寧に”Emerson Fittipaldi”のステッカーを貼っていて、まるで『暴走族ホイホイ』・・・ 決して乗りたくは無いクルマ、上位ランクであった。 あえて日産のHPリンクすることも無いでしょう・・・ということでリンクなし(意味の無い一行) |
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